浅川地下壕・三沢特殊地下壕にみる戦争の爪痕

東京都有数の戦争遺跡、最大の地下壕である浅川地下壕の見学会に参加しました。(10月26日/主催:生活者八王子・ネットワーク)高尾駅に集合。そこから歩いて20分ほどです。
ガイドをつとめてくださったのは、浅川地下壕の保存をすすめる会の中田均さん。昨年度は500名以上が訪れ、戦後80年の今年は特に見学会の申し込みが多いそうです。
中田さんは元高校の社会科の教師で、長年ボランティアでガイドをされているとのこと。とても丁寧にガイドしてくださいました。感謝申し上げます。

入口はこちら。八王子ネットの金子アキコ市議と

ここは1944年に、米軍との本土決戦の防衛のために陸軍浅川倉庫として掘削が始まりました。イ・ロ・ハの3つの地区からなり、すべて完成していれば総延長約10kmにも及ぶ巨大な地下壕です。見学したのは最も大きいイ地区。中島飛行機武蔵製作所が空襲を受けたことにより、エンジンをつくる地下工場に転用されました。しかし月300台の計画が、実際に生産されたエンジンは10台のみ。工場としての機能は、あまり果たされなかったようです。

ダイナマイトを爆発しては突貫して掘り進めたそうで、過去にはテレビ番組の取材中に、タレントがダイナマイトを木箱41箱発見したという話も伺いました。驚きです。壕内には、砕石を運ぶためのトロッコのレール枕木の木片もありました。

ダイナマイトが発見された場所は崩落防止の措置がされました

ライトがなければもちろん真っ暗。足元はところどころ水たまりがあり、湿っています。このようなところで、来る日も来る日も、朝から晩まで一日中作業する労働者の心身への負担に思いを馳せました。事故も頻発したと推測されます。国会図書館の記録から、「浅川工事へ200人の朝鮮人を強制連行しようと計画していた」という事実が判明しており、在日一世朝鮮人の証言では「そこにいて強制労働で酷使されるか」あるいは「命をかけてそこから逃亡するか」の選択しかなかったといいます。水たまりが、こういった労働者たちの無念の涙のようにも感じられました。

トロッコレールの枕木あと

長い鉄棒を差し込んで石をこそいだそうです

見学会が終わって解散したころ、2人の小学生が入り口をのぞき込んで不思議そうにしているのを見かけました。穴から大人がゾロゾロと出てきたのですから、驚くのも無理はありません。色々話をすると「先生に話してみる!」とのことで、学校の課外授業につながればよいなと思いました。
中田さんは、「平和と戦争を考えるために」とガイドを続け、この浅川地下壕を次世代に残し、活用してもらいたいと自治体に働きかけています。ここが戦争遺跡として整備・保存され、もっと多くの人に見てもらい、平和教育へとつながることを願います。

ところで、日野市三沢地区にも地下壕があることをご存じでしょうか。1945年に陸軍立川航空の軍需工場を当時の七生村に疎開させるため、国の施策により築造されたものです。しかしながら、同じ地下壕でもだいぶ状況が異なります。浅川地下壕のように、実際に入ったりすることはできない、目で見ることのできないものです。
地盤沈下が起こったことにより地下壕があるであろうと推察され、探査で疑わしい箇所を抽出し、ボーリングにより確認、判定、コンクリートを流し込んで埋め戻しを行っています。民地ですでに住宅が建っており、そこに住むことができなくなった方もいらしたと聞いています。そして今もなお、全容がつかめないまま、調査、設計、工事等に膨大な時間と労力、経費がかかっているのです。

このような特殊地下壕に関する法整備は行われておらず、地方公共団体が対策を実施する要領のみが定められている状況です。全国には8000近い地下壕があるようです。そのうち三沢の特殊地下壕は、2026年までに国土交通省事業として実施予定の23のうちのひとつです。(こちらをご参照ください)
しかしながら、現在の国の補助金は限定的かつ時限的です。国が責任を持って全容を解明し、近隣にお住いの方が安心して暮らせるよう、市としても埋め戻しを早急かつ着実に進める対策を国に強く求めています。

身近にある戦争の爪痕が私達に静かに語りかけること、それに耳を澄ませ、未来へと語り継いでいく必要があります。そのためにもまずは知ること、その輪を広めていかねばと、今回の視察を通して強く感じました。

中央がガイドの中田均さん

★詳細は「浅川地下壕――八王子に眠る東京都最大の地下壕」 (揺籃社ブックレット)をご参照ください。