みんな虹色のインクルーシブな社会は、学校改革から(学習会等報告)

1月は子どもに関する講座を受講する機会が、複数ありました。根底にあるのは、子どもの声を聞くこととインクルーシブ。どれもつながっていると感じました。その中からいくつか、特に印象に残った点を中心に、私なりのダイジェストでお届けします。

インクルーシブな教育の理解と促進(星山麻木さん:明星大学教育学部教授)

グレーゾーンという言葉は使いたくない。ひとは虹色、みんなそれぞれ違う配合の虹色。色々な色の子どもがいる。一年生は皆同じ能力という前提でやっているのがおかしい。アセスメントは「どうしたらいいかな?」と寄り添うものであり、評価ではない。その子のよいところをまず「温める」ことが大切。それ以外は、工夫をすればいい。特別支援って、失敗を予防する工夫。困ったときに助けてくれるドラえもんみたいなもの。
支援をするなら、まず自分を理解すること。すると他人への理解も変わる。インクルーシブ教育は人間理解教育である。(1月13日@八王子市特別支援教育地域講座)

 

インクルーシブ社会をめざすために(池田賢市さん:中央大学文学部教授)

「多様性」という言葉が多用されているが、イメージされる社会像は一様ではない。多様な選択肢の存在が権利保障になるという発想と、インクルージョンの実現が権利保障となるという発想がある。前者は「場」を分け、後者は分けない。インクルーシブな社会は「学び」を通して実践される。
しかし、いまの学校教育はどうだろう。常に逆算的思考で次のステージの「準備としての教育」になっていないか。そうではなく、知ること、考えること自体に意義がある。わからないことを含めての「多様性」、相互に関わりあって、多角的な視点が交差する環境を。集団で行動する意義は、互いに助け合えるところにあるはずた。(1月14日@多摩・生活者ネット40周年記念講演)

 

フルインクルーシブ教育へのロードマップ(一木玲子さん:東洋大学客員研究員)

日本ではインクルーシブ教育の定義を曲解している。特別支援学校はもとより、不登校特例校も分離教育。分離して統合するのはインクルーシブ教育ではない。どのようなサポートを求めるのか、子どもの声をきくこと。変えるべきは普通クラス。集団で学ぶということは、同じことを求めるためでなく、忘れものをしたら「貸して」と言える人間に、貸してあげる寛容な人間に育つため。国連の勧告に基づくロードマップを着実に推進していくべきだ。(1月17日@東京ネット子ども部会学習会)

 

学ぶってなに?学校って?教育って?と考え、いきつくのがインクルーシブ教育です。学校が合わないと感じる、不登校状態の子どもが増えているということも、学校が多様性を包括するインクルーシブな環境ではないということかと考えます。障がいのある子とない子が共に学ぶ環境があるということは、多様な子ども達が安心して「助けて」を発することができ、「わからない」を探求し、「やりたい」を追求する環境にもつながるのではないでしょうか。

インクルーシブ教育とは「多様な子どもたちが地域の学校に通うことを保障するために、教育を改革するプロセス」であると国連は定義しています。プロセスとは過程ですから、完成はないともいえます。しかし方向性はしっかりと見定めていなくてはなりません。今の日本の学校教育は、増築に増築を重ねてどこが入口だか出口だかわからないような状態になっているようにも感じます。

国は「インクルーシブ教育システム」といいますが、それはインクルーシブ教育とイコールではありません。一木先生が指摘するように、国は障害者差別撤廃条約に基づく国連の勧告を踏まえ、定義を正確に見直し、ロードマップを着実に遂行すべきだと考えます。

生活者ネットの仲間と講師の池田賢市さんを囲んで

一方、昨年末閣議決定されたこども大綱では、こどもの声を聞くこと、そしてその声をいかに政策に結び付けることができるかを重視しています。よく子どもの「意見表明」といいますが、もともと子どもの権利条約では「opinions」ではなく「views」といっているのであり、それは「ものの見方」といった言語化できないもやもやしたものも含まれているのです。だからこそ、それをどう汲み取るのかが大切です。他人を理解する前にまずは自分を理解すること、星山先生の言葉にはドキリとしましたが、もっともだと感じました。

そして池田先生が言われているように、インクルーシブな社会は「学び」を通して実践されるのだと思います。学校が変われば社会が変わるはずです。もちろん、学びは学校だけではありません。これからも皆さんとともに学びを深め、互いの違いを認め合いながら「共に生きる」インクルーシブ社会を目指していきたいと思います。

子どもの居場所をテーマとした日野市の公民館事業で紹介された絵本 気持ちと権利はつながっていることに気づかせてくれる