松代大本営地下壕から学ぶこと(視察報告)
性教協(“人間と性”教育研究会)全国夏期セミナー長野大会in松本のオプショナルツアーに参加し、昨年できたばかりの松代大本営平和祈念館および松代大本営地下壕(象山)を視察しました(8月3日)。

●松代大本営地下壕とは
大本営とは、戦時に設置される日本軍の最高司令部のことです。過去に3回(日清戦争時、日露戦争時、日中戦争時)設置されています。日中戦争時に設置された大本営が、アジア太平洋戦争末期、長野の松代への移転が極秘に計画されていたのをご存じでしょうか。
平和祈念館では、以下のように説明がありました。
【移転の理由】
1 激しくなった米軍の本土襲撃を避け、大本営を安全な場所に移転して指揮系統を守る
2 避けられない「本土決戦」に備え、大元帥(昭和天皇)と関連施設を安全な場所に移す
3 敗戦は必須だが「国体」(天皇制)は護持する
【なぜ松代に】
1 東京から離れていて、本州の最も広い地帯にあり、近くに飛行場がある
2 地質的に硬い岩盤で抗弾力に富み、地下壕の掘削に適する
3 山に囲まれた盆地にあり、工事に適する広い土地がある
4 長野県は比較的労働力が豊富である
5 信州は人情が純朴で、天皇を移動させるにふさわしい風格・品位があり、信州は「神州」に通じる

碁盤の目のように掘りぬかれたイ・ロ・ハの三つの地下壕の総称が松代大本営地下壕で、延長は約10キロメートル、終戦日までの約9ケ月間で、全工程の約8割が完成したといいますから、いかに突貫工事であったことかが伺い知れます。当時の金額で一億円とも二億円とも言われる巨費が投じられ、地元住民は立ち退きを迫られ、現場では多くの朝鮮人労働者も過酷な労働を強いられていたと言われています。戦争中にこの事業にこここまで力を注いで守りたかったものは「国体」であり、「国民」ではないことにがく然とします。
見学したのは、イ号の象山地下壕の約500メートル部分です。以前、八王子の浅川地下壕を視察しましたが、それよりもだいぶ歩きやすかったです。大本営であり、かつ長野市が戦争遺跡として整備しているからだと思います(公開されるようになったのは1989年より)。


●中学生とともに学ぶ
ここを訪れる前に、上山田ホテルで飯島春光さん(元教員・長野県歴史教育者協議会)のお話を伺いました。この上山田ホテルは日本で唯一の障がい児学童疎開を受け入れたところだそうです。肢体不自由な子ども達が通う学校「東京市立光明学校」の校長先生の頼みで、村長が経営するこのホテルに疎開した10日後に、光明学校は空襲で校舎が焼け落ちたといいます。まさに間一髪、疎開できて本当によかったです。ホテルの入り口には、その記念碑がありました。


飯島さんは、担任した中学生の生徒とともに松代大本営地下壕について学んできた軌跡を語られました。当時はまだ放置されていた真っ暗な地下壕を2時間かけて探索し、壕内の図面など作成し文化祭で発表したこと、あるいは沖縄の元ひめゆり学徒隊の人々が訪れた際に「私たちが必死で逃げていた時に、ここではこんなものを造っていたのか」と絶句したこと、敗戦後に中国で生き延びた人々の孫である生徒に「中国へ帰れ」など心ない言葉を浴びせる生徒もいたが、授業を通じて間違いに気がついたことなど、多くのエピソードがありました。「歴史に学び、今を生き、未来を創る」をモットーに、豊かな平和教育を実践されてきたのだと思います。

飯島さんは地下壕のガイドも務めてくださいました。
東京都は弾道ミサイル攻撃に備え、地下防災倉庫をシェルターにする整備を進めていると報じられています。ちなみに象山地下壕の設計図は「松代倉庫新設工事」という名称で防衛省・防衛研究所戦史研究センターに保存されているようです。倉庫、地下壕、シェルターと呼び名は何であれ、その前提にあるのは戦争です。時代は変わってもやっていることには変わらないように感じます。
戦跡を地域でどのように継承し、語り継ぎ、そこから得た学びを不戦の誓いにつなげていくか。日野市においても、皆さんとともに考えていきたいです。

松代象山地下壕の入り口にある記念碑
